先週、医療ソーシャルワーカーの部署で急な辞令交付があった。
私が勤務する病院は数千人の職員が所属しており、採用される社会福祉士は合計で数十名いる。数名は老人ホームの相談員に、残りの十数名は医療ソーシャルワーカーとして病院の相談室に配置される。
私が今の病院に入職するときの採用情報にもそのような内容とともに、病院の相談員から老人ホームの相談員に異動になる可能性があるといった記載があった。
「でも、異動ってほとんどないでしょ?先輩ももう10年以上今の部署から異動になっていないし」
私は認識はこうだった。
そう、採用情報に異動についての記載はあるものの、ほとんど行われるものではない。
だが、突然のことだった。
先週出勤すると、何やら課長からメールが届いている。
「今日の夕方、緊急で会議を行いますので、時間を空けておいて下さい」
何のことを話すのかわからないまま、仕事を終わらせ、夕方会議室に向かった。
まさかまさかの大好きな先輩の異動の話。仮にAさんとしよう。
課長から「先ほど人事課から辞令交付がありました。Aさんが老人ホームへ異動となります。これは11月からのことです」
皆「え?今なんて言った?」状態だった。
ショックというか、状況が受け入れられない。
「なんで?」
いつまでの同じ職場で働けると思っていた先輩とあと1週間しか働けない。
先輩も会議の直前に言い渡されたのだろう。あまりショックに会議の場で泣き崩れている。
先輩が泣き崩れるのも無理はない。
先輩は医療ソーシャルワーカーの仕事を愛していたし、職場の誰もが認めていた。
医療ソーシャルワーカーになりたくて福祉系の大学に入学し、医療ソーシャルワーカーとして病院の採用試験を受けた。入職当初は医師や病棟看護師ともうまくいかないことが多かったようだが、ここ数年先輩の必死の努力もあり、信頼を勝ち取った。
患者さんからも、他部署の方からも愛されていた。
入職したての私にもとても良くしてくれた。
困っていないか声をかけてもらったり、飲みに連れて言ってもらったり、私がケースでうまくいかなかった日には、帰宅後にフォローの連絡をくれた。
誰よりもコミュニケーションを大切にし、任されている役割も多く、部署にいなくてはいけない存在だった。
そんなAさんが急に異動になる。
残酷すぎやしないか?
本人へ何の相談もなく、「来週から異動で」と言い渡される。
どんなに実力があろうと、同僚からの信頼があろうと、患者さんのためになっていようと関係ない。
トップの意向が全てだ。
先週の辞令交付で、そんなことを感じた。
組織で働くのは時として残酷だ。
病院もボランティアで運営しているわけではない。患者さんへ医療を提供し続けるという目的を達成するために利益を出さなければいけない。
病院のトップも利益を出すために必要な判断を下すのは致し方のないこと。
ただ、なぜAさんが?
病院に十分貢献している人物だ。
私はショックであると同時に、恐怖を覚えた。
いつか私も医療ソーシャルワーカーでいられなくなる日が来るのかもしれないと思ったからだ。
今の病院で医療ソーシャルワーカーでい続けるためにはトップ、つまり医師からの評価を集めなければいけないのかもしれない。
ただ、私は評価を気にして縮こまって仕事をし続けたくない。
それは高校野球で痛感している。
Aさんの辞令交付を通じて感じたこと
今の組織でずっと働けると思ったら大間違い。
いつ異動になるかもわからないし、人間関係が悪化して職場にいられなくなるかわからない。
そんなときに自分や自分の家族を守るものは何か?
職場での信頼?
今の職場で評価されたこと?
自分で稼ぐ力かもしれない。
現代社会で生きていくには最低限のお金が必要だ。
そのためにはコツコツと自分で学び続けなければいけない。
カメとうさぎの童話に出てくるカメのように。
ノロノロでも良い、動き続けることが大切だ。
いつまでの今の職場にいられると思ってはいけない。
こんなことを思ってしまった。
だって、私が誰よりも仕事ができて、周囲から認められていたAさんでさえ、異動になったのだから。
何が言いたいかっていうと
ここまで暗い話をしてしまったが、何が言いたいかというと組織で働く私たちにできることは今与えられた仕事を一生懸命行うこと。
しかし、仕事ばかり固執していてはいけない。
与えられた仕事を全うしながらも、新しいことにチャレンジしていく。
ノロノロとでも良い。少しずつでも動き続ける。
前向きに。
1歩踏み出して、1歩下がっても、また1歩踏み出す。
その繰り返し。短期的には全然変わって内容に見えても、その心の姿勢が将来の自分を構築していく。
組織で働くためには、今の職場を大切にしつつ、多方面でチャレンジを続ける。
こんな姿勢が必要なのかもしれない。